1/01/2013

屋良座森城の碑に刻まれた三司官

琉球王府の実質的な行政の最高責任者である三司官宰相職)。東氏津波古殿内の津波古家にこの三司官を勤めた人物がいます。二世の東風平親方政供(東元宰)は、尚清王時代に三司官に任命されました。また、那覇港入り口の三重城の向かいの屋良座の要塞に建てられた碑には、東風平親方政供の名が刻まれていました。その要塞は「屋良座森城(やらざむいグスク)」と呼ばれており、多くの参考文献によると屋良座森城に建てられていた碑には、「世あすたへ三人(三司官)」の1人として「こちひらの大やくもいまうし(東風平大屋子森真牛)」と碑文のなかに名が刻まれていたと記されています。東姓家譜には「屋良座森城見碑文」と記されています。真牛というのは東風平親方政供の童名です。屋良座森城が築造された当時の琉球王国は3つの軍に編成された防衛組織が存在し、三司官3名のそれぞれが軍の統率者となっていました。三司官であった東風平親方政供は1つの軍の統率者という要職だったため、他の2名(城間大屋子森真栄久佐、内間大屋子森真徳と共に屋良座森城の碑に名前が刻まれたのだろうと考えられます3人の三司官の名の後には、奉行(屋良座森城築造責任者)の1人「かつれんの大やくもいまふとう(勝連大屋子森真布度)」の名が刻まれていました。


屋良座森城の碑に刻まれた東風平親方政供の名の前後に書かれた碑文が不明だったため調査したところ、碑文のすべてが記述されている文献がありました。文献には碑文を大まかに意訳されたものも記されていましたのでそちらのほうを抜粋します。

那覇市世界遺産周辺整備事業「石碑復元計画調査報告書」、国建地域計画部編集、那覇市市民文化部歴史資料室監修、那覇市 2004年。

「【大意】尚清王の命により、国の守備、湊の守護のため、各地の按司をはじめ離島の者も集めて城を築き上げた。落成式では、王を始め、聞得大君、僧侶たちにより、世の固め、国の固めの祈願がなされた。沖縄は聞得大君が見守っておられるので、昔から外敵の侵入はなかったが、万一のために築いた。いざというときには、一軍は首里城の守備、一軍は那覇の守り、南風原、大里、知念、佐敷、喜屋武などの一軍は垣花のやらざ森城に寄りそって防御せよ。と書かれ、三司官や奉行名が列挙されている(『沖縄大百科事典』)。



屋良座森城は第二尚氏4代・尚清王によって築かれたグスクです。倭寇や海藩(中国の海賊)を撃退するための台場(砲台)として築かれ、のちに対岸に築造された三重グスクと連携して那覇港を防衛していました。北側の三重城が北砲台と呼ばれるのに対し、屋良座森城は南砲台と呼ばれたそうです。グスクの造りは、長方形で、石垣の壁は厚く、四方の壁にはそれぞれ2か所ずつ城壁へあがる石段がありました。東南の壁には16か所の銃眼(狭間)が設けられており、内部は平坦で美しい芝が敷き詰められていました。1609年に薩摩藩の軍勢が那覇港からの進入を試みた際には、屋良座森城と三重城の間を鎖で繋いで薩摩藩の軍船が那覇港に入港するのを阻止しました。そして屋良座森城・三重城の両グスクから石火矢を打ち込んで撃退しています。薩摩藩は2つの砲台からの激しい攻撃を受けたため予定を変更し、今帰仁間切の運天港と読谷間切から上陸して首里城へ迫ったことから、この2つの砲台は防御価値のきわめて高い砲台であったと思われます。

その後、倭寇の衰退とともに港防衛の役割が薄れてきた屋良座森城は、大切な人の船出を見送る岬として知られるようになり、一般的に民間人が船を見送るための場所になりました。

1945年の沖縄戦の後、アメリカは那覇港の南岸を海軍基地として設立しました。基地拡張の一環として、屋良座森城は1950年にアメリカ軍によって徹底的に取り壊されました。周辺も完全に埋め立てられたため現在は残存しておらず遺構はありません。屋良座森城跡は那覇港湾施設(旧称「那覇軍港」)となっており、在日アメリカ軍基地としてアメリカ軍が管轄しているので立ち入りすることはできません。屋良座森城を含む那覇港の絵図や記録や碑文が多く残っているので、文献や資料から当時の様子を確認することができます。

1832年頃に「球陽八景」を下絵として葛飾北斎が描いたとされる「琉球八景」の「臨海湖声」(浦添美術館所蔵)では、埋め立てられる前の屋良座森城の様子を確認することができます。そして、鎌倉芳太郎氏の写真集の中でも破壊される前の屋良座森城を見ることができます。※「臨海湖声」をクリックすると参考画像をご覧になれます。)


嘉手納宗徳著「屋良座森城」

「完全に姿を消した南の台場。屋良座森グスク1554年、海防のために尚清王が按司や離島の民に命じて那覇港入口南側に屋良座森グスクと呼ばれる砲台を設置した。「やらさもりくすくの碑」には有事の際に南風原、島添大里、知念、佐敷、下島尻南部の隊を垣之花、当該グスクの守備に当たらせることが記されている。また賊船の進入を防ぐためにグスクの近くの岩礁に鉄鎖を繋いでいたことが『遺老説伝』から窺われ、その鎖を対岸に渡すことで港口を塞ぐといったこともなされていた。実際に1609年、薩摩勢が那覇港からの進入を試みた際には港口に鎖を張り、当該グスクと三重グスクから石火矢を打ち込んで撃退している。屏風絵には国場川河口から突き出るような位置に描かれている。戦後、米軍による那覇港接収によって徹底的に破壊され、また周辺も完全に埋め立てられた。」(「沖縄大百科事典」沖縄タイムス社、1983年)


Yarazamori Castle(英語版Wikipedia)

https://en.wikipedia.org/wiki/Yarazamori_Castle


 


追記:

高良倉吉著 「古琉球碑文に見る王国中枢の防衛体制」琉球アジア文化論集 : 琉球大学法文学部紀要 = RYUKYUAN AND ASIAN STUDIES REVIEW : Bulletin of the Faculty of Law and Letters University of the Ryukyus(2): 1 -10 (国立大学法人琉球大学 2016年)より抜粋

http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/34745/1/No2p001-010.pdf

「[屋良座森城の碑文] 尚清王が、「国のようし、とまりのかくごのために、やらざもりの、ほかに、ぐすく、つませ」(国の要津、泊の格護のために、回良血森の外に、グスクを積め)と命じた文章がこの碑文(「金石文」238ページ)の序段に登場する。琉球の上下万民が力を合わせ、この事業を成就させたのだが、例の如く、儀礼の場で聞得大君・君々がミセゼルを唱えた(ミセゼルの詞章を合む)。注目すべき表現は、緊急の事態が惹起した場合には、「ミばんの御ま人、一ばんのせいや、しより御城の御まぶり、一ばんのせいや、なはのばん、一ばんのせい、又はゑばら、しまおそい大ざと、ちへねん、さしき、しもしまじり、きやめのせいや、かきのはなち、やらざもりぐすくに、よりそふて、ミおやだいり、おがむやに、おさだめ、めしよはる」、という後段の部分であろう。

「ミばんの御ま人」(三番の御真人)というくだりは、「ミばんの御まへ」(三番の御前)の誤記だと私は推定しているが、拓本などの史料がなく確かめようがない。いずれにしろ、ヒキ組織の統率者(世あすたべ=三司官)のことだと想定できる。その3名の統率者に率いられた3軍のうち、一番の勢=軍は首里城の防衛、もう一つの勢=軍は那覇の防衛、残る一つの勢=軍と南風原・島添大里・知念・佐敷・下島尻・喜屋武の勢=間切兵員は、垣花および屋良座森城に集結し、一致して任務の遂行に当たるように指示した、と解釈できる。さらに、この碑文の裏面には、屋良座森城および根立樋川の水の格護は、小禄大屋子もい、儀聞の大屋子もい、金城の大屋子もいが懈怠なく担うベし、と規定さ れている。表文の末尾に刻まれる3名の世あすたべ=三司官と、工事責任者である奉行1名の大屋子もいクラスと同ランクの、地元に係る官人たちが屋良座森城と根立樋川の防衛上の現場責任者だという意味であろう。

真珠湊の碑文と比較すると、真玉橋を渡って垣花の地に集結する間切兵貝は同様であるが、別ルートで垣花に馳せ参じる間切兵員は、下島尻(島尻兼城・ 島尻大里・島尻真加比の総称)に加え喜屋武が迫加されている。しかしながら、真珠湊の碑文で確認したように、南風原を除く首里城周辺の間切や島尻の過半の間切が動員対象から除外されていることがここでも判明する。

この疑問を確認しつつも、屋良座森城の碑文は重大な事実を教えていることを強調しておきたい。この当時の王国には三番に編成された勢=軍が存在し、それぞれに主たる任務が課せられていたことである。すなわち、一番の勢=軍は首里城の防衛、一番の勢=軍は那覇・那覇港の防衛、一番の勢=軍は那覇港南岸地帯の防衛を担当した。 3つ目の勢=軍の守備範囲が、屋良座森城の碑文によれば屋良座森城と垣花であり、真珠湊の碑文によれば豊見城・垣花・根立樋川である。」


追記2:

屋良座森城の碑文がわかりやすく記述されています。

多和田真一郎著「碑文にみる沖縄語」法政大学沖縄文化研究所 1983年。

https://core.ac.uk/download/pdf/223199783.pdf


追記3:

屋良座森城の写真






参照: 那覇市歴史博物館
屋良座森城
那覇市歴史資料室収集写真/戦前

参照: 那覇市歴史博物館
屋良座森城(カキノハナヤラジャー)
写真集那覇百年のあゆみ/写真番号130/P38



追記4:
屋良座森城に関する参考文献


「沖縄大百科事典(下)」沖縄大百科事典刊行事務局、沖縄タイムス社、1983年。

p760-761「やらさもりくすくの碑」の項に、碑に関する記述と碑の表側の碑文の大意あり。

1554(尚清28)年6月に建立された碑文。屋良座森城の創建について記す。那覇市垣花にあったが戦災によりグスクとともに破壊された。碑文は『中山世鑑』、『琉球国碑文記』にも採録されている。表文は仮名書きの琉球文で」とある。


「仲原善忠全集 第2巻 文学篇」仲原善忠著、沖縄タイムス社、1977年。

p521-530 「やらざ杜城の碑文」の項に、碑の概要及び全文の翻刻文、読み下し文、訳あり。語注付き。


「石碑復元調査報告書」国建地域計画部、那覇市、2004年。

p146-147「欖注森城の碑」の項において、碑の概要及び全文の翻刻文あり。大意も記載されている。


「沖縄県文学史」中松竹雄著、沖縄言語文化研究所、2006年。

p267-269「やらさもりぐすくの碑」の項に、碑の表の碑文の途中までと裏の全文の翻刻文と訳あり。


「文字から見た沖縄文化の史的研究」塚田清策著、錦正社、1968年。

p196-197「屋らざもりくすくの碑」の項に、碑に関する記述と表の碑文の途中までの翻刻文がある。

さらに、「三重城と相対峙して那覇港を守る為に作られた。城は天文22(1553)年に作られ、碑の背面は、この碑を建てることに関係した人々の氏名が記録されている。この碑はやらざ森ぐすくの創建された翌年天文231554)年に建てられ」との記述あり。


以下の資料には翻刻文が記載されている。

「沖縄文化の研究」塚田清策、教育図書、1965年。

p203「琉球国碑文記の解説」の項。

「琉球國碑文記の定本作成の研究」塚田清策著、学術出版会、1970年。 

p105-107「やらさもりくすくの碑おもての文」の項。

「那覇市史 資料篇 112」那覇市民文化部歴史資料室、那覇市役所、2004年。 

p110-111「那覇由来記」より「(57)やらさ森の事」の項。


下記は影印本である。「やらさもりくすく碑おもての文」

「琉球国碑文記」(琉球王府)p18-19

「琉球国碑文記 別巻 第1巻 東恩納本(甲)」塚田清策著著、学術出版会、1970 p35-37

「琉球国碑文記 別巻 第2巻 東恩納本(乙)」塚田清策著、学術出版会、1970 p47-50

「琉球国碑文記 別巻 第3巻 伊波本」塚田清策著、学術出版会、1970年、p28-30


・「沖縄大百科事典(下)」沖縄大百科事典刊行事務局編、沖縄タイムス社、1983年。

・「仲原善忠全集 2巻」文学篇 仲原善忠編、沖縄タイムス社、1977年。  

・「石碑復元調査報告書」国建地域計画部編集、那覇市市民文化部歴史資料室監修、那覇市、2004年。

・「沖縄県文字史」中松竹雄著、沖縄言語文化研究所、2006年。

・「文字から見た沖縄文化の史的研究」塚田清策著、錦正社、1968年。

・「那覇市史」那覇市市民文化部歴史資料室編集、那覇市役所、2004年。

・「琉球国碑文記の定本作成の研究」塚田清策著、学術書出版会、1970年。

・「沖縄文化の研究」塚田清策著、教育図書、1965年。

・「琉球國碑文記」琉球王府編

・「琉球國碑文記 別巻 1 東恩納本(甲)」

・「琉球國碑文記 別巻 2 東恩納本(乙)塚田清策編、学術書出版会、1970年。

・「琉球國碑文記 別巻 3 伊波本」沖縄大百科事典刊行事務局編、沖縄タイムス社、1983年。

・「那覇古実集 慶留間知徳編」慶留知徳著、1929

「古琉球碑文に見る王国中枢の防衛体制」高良倉吉著、国立大学法人琉球大学、2016年。
「碑文にみる沖縄語」多和田真一郎著、法政大学沖縄文化研究所、1983年。