津波古政正の父である与世山親方政輔(安仁屋親雲上政輔)。タイトルの通り琉球史上ではあまり知られていない人物ですが、仲泊良夫著「琉球偉人伝」(1969年 沖縄風土記社)には偉人の1人として詳細に記述されています。
この著書の最後の章である第11章に「首席判事 与世山政輔」というタイトルで与世山政輔の伝記が記載されています。章のまえがきには、琉球最後の国王尚泰の側近に仕えた漢学者喜舎場朝賢が自著の「琉球見聞録」の中で「与世山はかって大屋子(判事)より主取(主度判事)に至り、多年刑事を取り扱い、特進して紫冠に昇り、親方と称す。当時、刑事の精錬、この人の右に出ずる者なし。」と称揚していたことが記述されています。喜舎場朝賢は津波古政正の高弟でした。
与世山政輔は、アメリカの水師提督ペリーが1853年琉球に来航の際、外交官兼通訳官として活躍した牧志朝忠に英語を教えました。英語を習得して異国通事となった牧志朝忠は、頻繁にやって来る西洋船との交渉能力を薩摩藩に認められ、結びつきを深めました。また、琉球に漂流したジョン万次郎の取り調べや、ペリー艦隊との交渉も担当しました。沖縄では特に牧志恩河事件で有名ですが、琉球史に名を遺す人物です。
「牧志朝忠に英語を教えた与世山親方に関する詳しい文献は、今までどの琉球史の中にも見当たらなかったが、私は最近、那覇市寄宮の東家に与世山親方の家譜が保存されていることを知った。そして東姓家譜によって、与世山親方政輔が尚泰王の侍講(国師)であった津波古親方政正の父であり、かつ1816年にイギリスのバジル・ホール大佐(Captain Basil Hall, 1788 - 1844)が来琉したときの通訳官安仁屋親雲上であることを知った。また、1827年4月イギリス船ブラサム号に乗って来琉したF. W. ビーチー(F. W. Beechey, 1796 - 1856)の琉球側通訳として与世山が任命されたこともわかり非常に興味深く感じた。」と記述されています。
※註釈: 当時の東姓門中の当主宅は那覇市寄宮にありましたが、道路拡幅工事計画のため移転しました。当主宅で保管されていた「東姓家譜」は那覇市歴史博物館に寄託されています。
与世山親方政輔の略歴が詳細に記されており、「東姓家譜」によると与世山親方政輔は1792年8月24日に首里桃原村で生まれました。1808年の16才の時に首里の国学(大学)に入学して本格的に北京語を学んだあと、1812年5月1日に国学筆者(大学書記官)になりました。そして1816年4月10日の24才の時に平等所大屋子見習(判事補)に任命され、その年の8月21日に長男の政正(津波古親方)が生まれました。
与世山はイギリス艦隊に乗って来琉した海軍少佐から英語を学びました。
「長男政正が生まれる約1ヶ月前の1816年7月25日イギリス艦隊のアルセスト号(司令官マレー・マクスウエル大佐 Captain Sir Murray Maxwell)とライラ号(艦長バジル・ホール大佐)が中国から韓国を経て那覇に寄港した。艦隊は9月6日まで約40日間滞在し、1717年10月イギリスに帰った。ホール大佐は1818年にロンドンのジョン・マレー書店から「朝鮮西海岸及び大琉球島探検航海記」(”Account of a Voyage of Discovery to the West Coast of Corea and the Great Loo-Choo Island, “by Basil Hall, published by John Murry“ London, 1818)を出版した。本書には首席通訳官真栄平親雲上と次席通訳官安仁屋親雲上(与世山親方)の活躍が詳しく記述されている。当時真栄平は29才、安仁屋は24才で、両名とも平等所大屋子見習(裁判所判事補)であった。
イギリス艦隊が到着したとき、真栄平と安仁屋(与世山)はハーバート・クリフォード海軍少佐(Herbert Cliforq, ESQ, Lieutenant, Royal Navy)から英語を学んだ。日がたつにしたがって彼らの英語を話す能力は著しく進歩し、3週間後にはブロークンではあったが日常の英会話を自由に使いこなせるようになっていた。ホール大佐は「航海記」の中で、ふたりの英語の進歩について次のように書いている。
「ふたりの琉球人が非常な熱心さで英語を習い、著しい進歩を見せている。そのひとりは真栄平(唐名可世栄)で、もうひとりは安仁屋(唐名東順法)である。かれらはクリフォード氏をまねて、常にノートブックを持ち歩き、習ったことばをすべて自国語で記入する。ふたりとも頭の鋭い男で、いつでもわたしたちといっしょにいた。彼らが時たま琉球人たちから受ける尊敬の度合いから見ると、彼らは自分で言っているよりも、はるかに高い身分の人物ではないかと思われる。低い階級の人であるように偽っているのは、艦隊員のだれとでも自由に交際する機会を持ちたいためであろう。
真栄平と安仁屋の両通訳官はクリフォード少佐が琉球語を学びたがっていることを知り、彼にさまざまの琉球語を教えた。このクリフォード少佐の琉球語に関する論文は70ページに及び、その中には950語の単語と118の琉球語文例が記載されている。彼の琉球語の調査は、琉球語が日本語になったりしたものもあり不完全なものであったが、多くの資料を集めて、順序よく配列しているため、その後琉球を訪れた外国人に多大の便宜を与えた。」と記述されています。
安仁屋の上司であった首席通訳官の真栄平とは、真栄平房昭(柯世栄)で中国語と片仮名による「英語会話集」を書き著した賢才な人物でした。真栄平は1787年生れで、当時イギリス艦隊の対応にあたったのは29才の頃です。1813年に「 平等所大屋子」の役職に任命されています。異国船が来琉した記録が残されている様々な航海記や関連文献には、真栄平房昭の人柄や才腕によって異国との交渉や交流が首尾よく進んだことが多く記述されています。
イギリス船ブロッサム号のF. W. ビーチー船長が執筆した航海記には与世山親方政輔(安仁屋)の名前がたくさん記されています。
「バジル・ホール大佐が、1816年7月25日来琉してから、6年後の1822年8月、イギリス船が沖縄本島南部の真壁間切名城村の沖(現在の糸満町名城ビーチ沖合い)に漂着した。琉球王府では、ただちに平等所大屋子見習(判事補)の安仁屋親雲上(与世山政輔)を通訳官に任命し、救助と接待に当たらせた。イギリス船名と船長名については、「東姓家譜」や「球陽」(歴史書)にも記載されていないので判明しないが、王府では安仁屋の功績をたたえて、10月4日日付で三司官より表彰状を授与した。
ついで、1827年4月23日イギリス船ブラサム号(Blossom)が、やはり暴風にあって那覇沖に漂着した。同船にはF. W. ビーチー船長(F. W. Beechey 1796 - 1856)以下100名が乗り込んでいた。琉球王府では中国語と英語のたくみな安仁屋(与世山)を通訳官に任命した。当時、安仁屋は35才で、判事補から判事(平等所大屋子)に昇進していた。
ビーチー船長はイギリスに帰ってから、1831年に「太平洋・ベーリング海峡航海記」(Narrative of Voyage to the Pacific and Bering Straits)をロンドンで出版した。
ビーチー船長は、「航海記」の中で安仁屋親雲上(与世山政輔)について、次のとおり記述している。
An’yah, by means of a Vocabulary list which he carried in his pocket, made several inquiries. which occasioned the following dialogue :
“What for come Doo-choo?”
“To get some water, refit the ship, and cure the sick.”
“How many mans?”
“A hundred.”
“Plenty mans.”
It happened, however, that An’yah knew enough of the English language to say something more than these monosyllables so that which the help of a dictionary, a vocabulary list and dialogue in two languages, which Dr. Morrison very generously provided for me, we had the means of gaining a good deal of information ; more probly than we could have done through an indifferent interpreter.
(安仁屋はフトコロに持っていた単語集を使って、2、3のことを質問したが、それは次の会話に示すようなものであった。
「琉球には、どういう用事でおいでになったのでしょうか。」
「水を補給したり、船を修理したり、病人を治療するために来ました。」
「乗組員は何人でしょうか。」
「100人です。」
「そんなにたくさん。」
しかし、安仁屋はこういう簡単な問題以上のことを言える十分な英語力を持っていた。したがってわたしたちは、モリソン博士からいただいた琉英語の辞典や単語集や会話の本のおかげで、へたな通訳を通じてよりも、もっと確実で多くの情報を得ることができた。)」
当時の安仁屋は35才の若さで判事となり、1831年2月15日の39才の時には科律奉行(刑法典の編集官)に任命されました。
与世山(安仁屋)はその後、中国へ派遣されることになります。
「1831年、新しい琉球の刑法を完成して与世山政輔は、同年4月15日護送船脇筆者(中国への貿易船書記官)兼唐物方御用係役(中国の物資係)を命ぜられた。4月24日那覇を出帆、中国へ向かった。ところが天気が悪くなったので、久米島に避難し、5月7日那覇港へ引き返した。その後、天候の回復を待ち、9月6日再び那覇港を出帆、順風に乗って9月13日福州に安着した。福州には翌1832年5月中旬まで滞在、5月16日福州を立ち5月21日沖縄に帰ってきた。
中国から帰った与世山は、1832年9月18日、ふたたび平等所加勢大屋子(裁判所補助判事)に任ぜられた。当時、彼は40才になっていた。」
そして琉球王府は、1836年12月15日に中国の事情と法律に詳しい与世山政輔を、冊封使来琉の際の取り締まりに関する布告の作成役に任命しました。それから2年後の1838年2月11日に平等所大屋子主取(首席判事)に任命され、与世山は46才になっていました。
与世山は通訳官として北谷村で難破したイギリス輸送船の救助に当たりました。
「1840年8月14日、イギリスの輸送船インディアン・オーク号が、第一次英中戦争(アヘン戦争)の作戦参加中、沖縄中部の北谷村沖で台風のため難破した。琉球王府では、与世山政輔を通訳官に任命し、救助に当たらせた。
遭難したクレインガー船長は、琉球の人々の示した親切さについて次のとおり報告した。
「乗組員の取り扱いは、難破の記録のなかでも、非常によかった。沖縄人は、一般国民も官史も積み荷や補給品の陸揚げにあらゆる助力を惜しまず、マカオや南支那の沿岸に航海する船舶の修理を助けた。」
「この仕事には43日も要した。」
「遭難者たちには食料も十分に与えられ、住居もよいものを与えられるなど、手厚く取り扱われた。」
この難破船救助の出来事は北谷に住む人々に語り継がれています。北谷町が発行した「北谷町史」に顛末が記述されており、安仁屋政輔の名前が記されています。また、北谷町にある安良波公園には石碑が建てられ、救助したインディアン・オーク号に似せて造った本格的で大きな遊具があります。船の遊具から海に向かってターザンロープが張られており、地元の子供たちに大人気の遊具となっています。
それから4年後、与世山はたびたび中国へ派遣されることになります。
「与世山は中国派遣を命ぜられ、1844年9月20日那覇港を出帆、26日福州に着いた。中国には翌1845年2月まで滞在、2月28日帰国した。そして、翌1846年2月3日、ふたたび尚育王の従事職に任じられた。一方、1840年以来北京の国子監(大学)に留学していた長男の政正(後の尚泰王国師津波古親方)が1847年5月22日、7年ぶりに帰ってきた。
評定所(内閣)では1848年、与世山に対し御玉貫(酒びん)一対を贈った。」
そして与世山はまた再び中国へ派遣されます。
「1851年2月1日、与世山は接貢船(中国から貿易品を積んで帰る船)の通訳官に任ぜられた。
与世山の乗った接貢船は、1851年9月8日那覇港を出帆、9月13日福州に着いた。1852年4月28日、中国での任務を終わって5月4日福州を出発、5月8日帰国した。そして5月17日、首里城で中国皇帝からのみやげ品を献上した。5月25日に、尚泰王とその母、佐敷按司から扇子2本、紺地の上布一反を下賜され、翌5月26日鹿児島へ向け出発した。」
それから与世山は薩摩藩へ渡り、島津成彬に謁見することになります。
「与世山が鹿児島に行ったのは、中国人から買い入れた品のおもなものが鹿児島側の注文品であったため、それを届けたわけである。
与世山は6月1日薩摩の山川港に着き、6月5日同港を出帆、6日に鹿児島へ到着、中国からの貢物を薩摩藩に納めた。8月1日に島津公に面接、11日から24日まで鹿児島のお寺や名所旧跡を見物し、9月4日、鹿児島を出帆、山川港を経て、9月18日、天候不順のため恩名村名嘉真で下船した。そして陸路ようやく首里に着いた。」
与世山が薩摩へ向かう半年ほど前の1851年2月に、薩摩藩の藩主であった島津斉興が隠居して島津斉彬が第11代藩主に就任しています。遥か南の琉球王国から訪れた与世山の目に、薩摩の島津成彬公はどのように映ったのでしょうか。
「鹿児島から帰った与世山は、翌1853年5月3日、具志頭間切与座村の地頭に任じられ、6月に姓を安仁屋から与世山に改めた。
安仁屋が、どういう理由で与座と改姓せず、与世山になったか判明しない。」
元々この与世山という名は中国福建から渡来した久米36姓の人々が名乗る名前であったことから、与世山の中国や閩人に対する恭敬の念によって与世山と名乗ったのではないだろうかと思われます。
そして琉球王国にもペリー率いる黒船艦隊が姿を現します。
「1853年5月26日、アメリカのペリー提督が旗艦サスクエハナ号に乗り、ミシシッピ号、サプライ号などの艦隊を従え、那覇港外の波之上宮沖に到着した。また遠征隊の中国語通訳官に任命されていたサムエル・ウイリアムズも、サラトガ号に乗って夕方までに那覇に入港した。」
この時、琉球王国とアメリカの間で琉米修好条約が締結しました。
「1854年7月11日那覇公館で、琉球王国とアメリカ合衆国間の条約が調印された。
条約の草案は、ペリー提督の副官ベント大尉と中国語の通訳官ウィリアムズ博士が作ったものであった。
琉球王府側では通訳官板良敷朝忠と法律の専門家である与世山政輔らが会議に参加して条約文案を検討した。与世山は板良敷に英語を教えた先生であり、かつ北京(ペキン)語に通じ、しかも琉球の刑法典を編集した法律家である。東姓家譜によると、彼は1853年12月1日付で琉球王府の外交関係を担当する役人(申口坐)に任命されていたから、この重要な会議に参加していたことはまちがいないと思われる。」
この黒船艦隊のペリー提督に随行した首席通訳官のサミュエル・ウィリアムズは、中国語(漢文)だけではなく日本語の知識も有する言語学者でした。
その後、与世山は宮古島や石垣島の検閲使となります。
「1856年2月15日、翁長親方朝典と与世山を宮古、八重山の検閲使に任命、両島へ派遣することになった。彼らは天気のよい9月30日に那覇を出港、10月1日宮古島に着いた。宮古では約4ヶ月滞在し、経済、産業を調査し、翌1857年2月初旬八重山島へ向かった。同島にも約4ヶ月滞在し、調査を終えて5月21日石垣港を出帆、5月23日沖縄へ帰ってきた。」
そして琉球王府から紫冠を賜り、親方を称するようになります。親方とは士族が賜る最高の称号で、紫冠を頭に被り、花金茎銀簪や金簪を差しました。
「宮古、八重山の検閲使の任務を終えた与世山は、1858年5月9日所帯係(主税局長)に任命され、同年12月1日には紫冠(従ニ位)を賜り、親方の称号を与えられ、知行高二十石を支給された。この日、尚泰王および王妃、母后などは使いを与世山邸に派遣して花かご、玉貫(酒瓶)一対を贈られた。ときに彼は66才に達していた。そして同年12月10日には刑法条目主裁職(刑法の各条を主裁する職)となった。
1860年6月1日には南風平等学校奉行職になった。(平等学校は初等教育を終わった者が進む首里の中等学校で、ここを修業した者は「国学(大学)」に進んだ。当時、首里には、真和志平等、南風平等、西平等の3校があった。南風平等学校は桃原、大仲、当蔵、鳥堀、赤田、崎山の6か村の生徒を教育していた。)
次いで、彼は1862年12月1日南風平等惣横目(保安局長)に任じられた。彼は70才に達し、政治の第一線から引退していた。当時惣横目の職務は直接には政治に関与しなかったため、位階の高い王子、按司、親方などの階級の中から適任者を選んで任命していた。」
これで最後になりますが、この著書「琉球偉人伝」の巻末あとがきには与世山政輔の晩年と著者仲泊良夫氏の「知られざる与世山政輔」に対する思いを書き記して結んでいます。
「東姓家譜の中の与世山政輔に関する系譜は、1862年12月1日で終わっている。その後の彼の詳しい履歴について、詳しい記録は残っていない。したがって彼の死亡年月日も判明しない。ただ、1862年2月1日、長男の津波古親方政正が平等之側吟味役(司法次官)に任命され、2年後の1864年には尚泰王載冠式(冊封)を要請するために派遣されたことが記録されている。それからさらに2年後の1866年7月、25才の尚泰王の冊封が行われた。
与世山は牧志恩河事件のとき、糺明奉行(検事)であった伊江王子尚健や宜湾朝保に反対し、人権を尊重するため、彼らを拷問にかけることを拒否した人物として知られている。
与世山の功績は、19世紀の琉球王国の外交と刑法の制定に幾多の実績を残した点にある。彼は尚灝、尚育、尚泰の3人の国王に仕え、アメリカ、オランダ、フランスとの修好条約締結に際し、牧志(板良敷)朝忠とともに活躍した人物として、琉球史に長く記録されるべきであろう。」
追記:
山下重一著「琉球英語通事 ・安仁屋政輔」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/2000/32/2000_32_25/_pdf
國學院大學名誉教授であった山下重一氏が、安仁屋政輔についての論文を詳細にわたって記述しています。大変参考になる重要な文献ですので、ご一読いただければと思います。
追記2:
宮永孝著「琉球における英学発達小史」より抜粋
https://core.ac.uk/download/pdf/223208185.pdf
「当時、これらの役人の中でいちばんすぐれた知性と天賦の才にめぐまれていたのは、真栄平房昭(一七八七~一八二九、平等所大屋子見習[判事補])、安仁屋政輔(一七九二~ ? 、平等所大屋湖見習[判事補])ら、二名であった。この二人は、アルセスト号とライラ号が琉球に来るまで、英語にふれたことはなかったし、ましてやその知識は皆無であった。しかし、かれらはこれ幸いと機会を利用し、外国船が来航するつど、耳学問と筆録によって熱心に英語を学んだ。かれらは通事係と目付・探索役をかねており、外国人の言動にたえず注意を払った。両人の英語の学習のようすについては、つぎのように記している。
二人の役人が非常な熱心さで、英語を習っていて、しかも著るしい進境を見せている。その一人は真栄平(メーデーラ)で、もう一人は安仁屋(アニヤ)である。彼等はクリフォド氏をまねて、常にノートブックを持参し、習ったあらゆる言葉を、彼等の文字でそれに記入した。二人共、中々頭のよい男で、始終吾々の間にいた。折りにふれて、彼等に払われる尊敬から見ると、彼等が自称しているより、遙かに高い身分の人物ではないかと思われるのであった。
バズィル・ホール著 須藤利一訳『バズィル・ホール 大琉球島航海記』(琉球新報社 昭和三十年十月再刊)、一二九頁。
「真栄平とならんでもうひとりの通事・安仁屋政輔の存在も無視できない。バジル・ホールが来球したとき、真栄平は「主席通事」、安仁屋は「次席通事」であったようである。このことはバジル・ホールの『大琉球島航海記』の付録の第二部にみられる― 英国海軍のハーバート・ジョン・クリフォード中尉が編んだ「人の名称」(names of persons)につぎのようにある。
The first Linguist - - - Mádera Káwsheeoong.
The second Linguist - A’nya Toónshoonfa.
安仁屋政輔は尚穆四十一年=寛政四年(一七九二)八月二十四日に首里の桃原村で生まれた。童名は恩亀、名は政輔といった。そして唐名は東順法と称した。寛政十年(一七九八)十二歳で「国学」に入学し、文化八年(一八一一)には筑登之座敷に昇り、二年後の文化十年(一八一三)には平等所(裁判所)大屋子の見習いとなった。文化十三年(一八一六)八月にバジル・ホールが来球したときは、平等所大屋子の前栄平房昭に見込まれて、真栄平とともに異国通事を拝命した。
文政九年(一八二六)三月、大屋子に任じられた。天保二年(一八三一)琉球の科律(刑法)の編纂役をつとめ、翌年には唐物方御用係役となった。尚育三年=天保八年(一八三七)国王の近習となった。時に安仁屋は四十六歳。天保九年(一八三八)平等所大屋子主取(主席判事)に任じられた。嘉永六年(一八五三)具志 頭 間切与座の地頭職を賜り、与座親雲上政輔をなのった。尚泰十三年=万元六年(一八六〇)六月、南風原平等学校の奉行職、同年十二月には勘定奉行職に昇進した。尚泰十五年=文久二年(一八六二)には、南風之平等の総横目に任じられた。ときに安仁屋は七十一歳。その後の動向については不明である。
安仁屋は、真栄平におとらぬほど熱心に英語の修得につとめ、いつも小さな帳面を持ち歩き、おぼえたことばを、あるいは聞いたことばを琉球の文字で書きしるした。バジル・ホールが那覇にやって来て十一年後の一八二七年(文政十)にイギリス艦ブロッサム号(艦長F・W・ビーチィ)が、その五年後の一八三二年(天保三)にはパートリッジ号(艦長スティーブンズ)が、さらに同年八月にはロード・アマースト号などが来 航したが、安仁屋は中国語と英語の通事として活躍している。このときも手製の会話集を取りだしそれを参考にしながら会話を進めた。」
「ビーチィ艦長(一七九六~一八五六)は、ホールやマクロードの本によって、真栄平や安仁屋のことを識っていた。かれは相ついでやってきた役人の中に安仁屋(An-jah)をみいだすのである。かれはまず琉球式に、ついでイギリス風にあいさつしたのち、ふところから単語集を取りだすと、まず英語でWhat for come Doo Choo?(何のために琉球にやってきたのか)と尋ねた。この問にたいして、ビーチィは、「真水を得、艦の修理をおこない、病人を回復させるため」と答えた。さらに安仁屋は、たたみかけて問うた。
問 How many mans? (乗組員の数は?)
答 A hundred. (百名です。)
問 Plenty mans! You got hundred ten mans? (ずいぶん多いな! 百十名も乗っているのか? )
答 No, a hundred. (いや、百名です。)
問 Plenty guns? (大砲をたくさん積んでいるか?)
答 Yes. (ええ。)
問 How many? (何門ある?)
答 Twenty-six. (二十六門です。)
問 Plenty mans, plenty guns! (乗組員は多いし、おまけにたくさん大砲を積んでいる。)
問 What things ship got? (艦は他にどんなものを積んでいる?)
答 Nothing, ping-chuen. (軍艦は何も積んでいません。)
問 Not got nothing? (何も積んでいない?)
答 No, nothing. (ええ、何も。)
問 Plenty mans, plenty guns, not nothing! (大勢の乗組員、たくさんの大砲、何も積んでいないとは!)
安仁屋は、かたわらにいる書記のほうを向くと、同人と話をはじめたが、ビーチィ艦長の発言を信じていないようであった。しかし、書記は会話の内容を記録した。艦長はじぶんの言っていることの意味を明らかにするために、宣教師モリソン博士に書いてもらった中国語で書いた文章を安仁屋にみせ、ようやく得心させた。安仁屋はいった。I speakee mandarin; Doo chooman no want pay.(わたしは北京官話を話します。琉球人は代金を受けとらない) ビーチィ艦長によると、安仁屋は単音節の語以上のものを話せるほど英語を習得していたという。訊問がおわると食事となり、酒が胃のなかにたびたび収まると、気分がほぐれ、あらぬことを口にするようになった。 安仁屋はたずねた。Ship got womans?(艦には女が乗っていないのか?)ビーチィは「乗っていない」というと、Other ships got womans, handsome womans!(ほかの艦は乗せていた。きれいな女性を!) といい、アルセスト号の掌帆長のロイ夫人のことをいっているようであった。
ビーチィは、また真栄平のことをたずねると、かれはいま首里で重い病いにかかっているとか、宮古島の近くの小島に流刑になった、といった返事をした。
ブロッサム号が那覇に滞泊したのはわずか三週間であり、同月二十七日には出帆し、北太平洋の探検に旅立った。」(省略)
「午後三時ごろ、二隻の平底船にのった役人らがやってきた。かれらは青と白の格子縞の亜麻のゆったりとした着物を着ていた。甲板のうえに上ると、中国式に深々とおじぎをした。役人のなかの中心人物がすぐ中国語を話すかとたずねた。この問にたいして、話すと答えてから、相手にす わるようにいった。テーブルの上には紙と鉛筆がおいてあった。質問をした役人は顔立ちがよく、他の者より背が高かった。役人はさらに中国語 でたずねた。琉球に何の用があって来たのか。この問にたいして、ウィリアムズ師は、港にきたのは数日滞在し、島民と話をし、休息するためです。と手短に答えた。ついで国籍や乗組員の数などについて聞かれたが、答はすべて記録された。役人のひとりがふところから本(「英球語彙集」のようなものか)を取りだすと、一瞬それを見てから、かたことの英語でたずねた。以下、ウ ィリアムズ師とのやりとり。
問 Dis what ship? Dis American ship? (これはどんな船か? これはアメリカの船か?)
答 Yes.(そうです。)
問 How many mans? (何人のっている?)
答 Twenty-eight men.(二十八名です。)
問 Plenty mans! Have got guns? (ずいぶん乗っているな! 大砲をたくさん積んでいるか?)
答 No, this is a merchant ship.( いいえ、積んでいない。これは商船なのです。)
問 I talked mandarin.(私は北京官話を話す。)
ついで役人はすわると、同僚と話をはじめた。ウィリアムズ師らは役人らに、いま英語を話したのは安仁屋ではないかとたずねると、そうだとうなずいた。
かれらの顔の表情から、どこで安仁屋の名を知ったのを知りたがっていることがわかった。安仁屋の口から出た英語は、かってブロッサム号のビーチィ艦長に話したものと酷似していたので、ウィリアムズ師らは、 そのことを愉快に思った。その後、安仁屋は中国語で相手と会話ができ ることがわかると、「英球語彙集」にたよらなくなった。ウィリアムズ 師の印象では、安仁屋は学んだ英語の大半を忘れてしまっているようだ った。やがて酒や菓子がふるまわれた。上級役人のひとりがモリソン号の大きさや船長や乗客の名前をきくと、それらを筆録させた。安仁屋もモリソン号がイギリス船ではないのかといった。ウィリアムズ師は、アメリカはもともとイギリスからやって来た人びとが創った国であり、地図をみせながら英米両国の姻戚関係について説明してやった。」
追記3:
「仏蘭西学研究」第45号 日本仏学史学会 2019年
宮里厚子著「フランス海軍関係資料にみるアルクメーヌ号の琉球来航」より抜粋
http://futsugakushi.com/wp-content/uploads/2020/08/9fd317b283d77e56d6194e950092d194.pdf
「アルクメーヌ号(L’Alcmène)の来航は、19世紀、鎖国下の日本との接触の足掛かりにしようと琉球王国に来航した多くの西洋列強の船の来航のなかでも、重要な出来事の一つである。フォルニエ=デュプラン(Bénigne-Eugène Fornier-Duplan)艦長率いるアルクメーヌ号は、フランス・インドシナ艦隊所属のコルヴェット艦で、琉球での滞在は1844年4月28日から5月6日までの9日間と比較的短いが、フォルカード神父(Théodore Augustin Forcade)を琉球に連れてきた船であることからその名前が言及されることは多い。その9日間の滞在の様子はフォルカード神父の「フォルカード神父の琉球滞在日記」に詳細な描写があるため、すでに多くの人の知るところであろう。」
「士官達が陸地の散策をするときは「年取った」通事が同行していたことが記されている。通事たちの名前は明記されていないが、「年取った」ほうは安仁屋政輔だと推測できる。彼は、1816年にバジル・ホール船長率いる英国艦ライラ号が琉球に来航した時に対応した人物であり、バジル・ホールの旅行記にも出てくるため、フランス人航海士たちの間でも知られていた。士官候補生グリヴェルの報告書によると4月30日にフォルカードとオーギュスタンが船に残っている間、士官たちが停泊している泊から小舟で川を渡って那覇の町に行こうとすると、300から400人の見物人のなかに「注意深く地元の文字で」メモを取っている老人に気づく。彼は、「発音から自分の知っている英語に相当するフランス語の単語をいくつか集めていた」ということである。そして、「片言の英語を話しながら」士官たちが那覇の町に行くのをやめるよう懇願した。彼らが制止を無視して町へ向かうと、今度は小舟で彼らを追いかけて来て「深い失望を大げさな身振りで表現」するが、結局士官たちが上陸すると、彼らの腕を取ってエスコートし始める。多くの見物人たちが集まっているなか、士官たちを塀で囲われた家に導くことで混乱を避けようとしたようである。そこでグリヴェルらは通事たちの「中国語半分、英語半分のおしゃべりをしばらく楽しんだ」。その後、彼らは町を見学する目的も果たし(ただし家々は役人の命令によって閉ざされていた)、港で小舟に戻る前には日本の帆船(「ジャンク船」)のなかも見学している。」
追記4:
菊地原洋平著「琉球における異国船と博物学 - ブロッサム号によるフィールドワーク(1827年)」より抜粋
https://www.jstage.jst.go.jp/article/seibutsugakushi/98/0/98_23/_pdf/-char/ja
「港に停泊したブロッサム号の艦内に琉球側の役人がやってきた。その人物は 1816年 にアルセスト号 HMSAlcesteとバジル・ホール BasilHal(1788 1844)率いるライラ号 HMSLyraが来航したときに英語を学んだ通事の安仁屋政輔である。彼はそのときにつくっ た英語の語彙集をとりだして、ビーチーにいくつかの質問をした。それに対してビーチーも、 事前に中国でモリソン博士 RobertMorison(馬禮遜、1782-1834)に書いてもらった漢文を 提示した。こうしたやり取りをとおし、ビーチーは那覇への停泊を要求するとともに、飲料水 や新鮮な食糧が必要なこと、病人の回復のために上陸が必要であることを説明し、またこうし た希望がかなえられればその代価を支払うことを約束した。対する安仁屋は、ビーチー曰くこ の説明に満足し、「われわれはこの要求を長官に伝えるだろう。しかし琉球島の人びとはその 代価を要求はしない」と返答した。だがその後の艦内で催された会食において、安仁屋は 翌日に飲料水をもってくることを約束したが、「5日後にここを立ち去ってください」と願い 出た。ビーチーは「病人は上陸させて散歩させなければならない」と主張し、明日上陸して長 官にその旨を伝えると返答した。安仁屋はこれに驚き、その要求を丁重に断った。翌日、安仁屋が地元の医師を連れて艦内にやってきた。本当に乗員が病気かどうかを調べる ためである。医師の診断により病気が事実だとわかると、安仁屋は町に入らないことを条件に、 海岸付近を散歩することを許可した。」
追記5:
照屋善彦「19世紀における欧米との異文化接触(1):言語問題」より抜粋
https://ci.nii.ac.jp/naid/110000038144
「8世紀末から明治維新までの約70年間に,琉球王国へ欧米の軍艦・商船・調査船・難破船等が約60隻以上も来航または漂着した。琉球を訪れたこれらの欧米人は,それぞれが来航の目的に従って琉球を詳細に観察・調査をしていて,往時の琉球の人と文化を知る貴重な史料となっている。小論では,イギリス人と琉球人の異文化接触の際の言語問題について,これらの史料を基にして論じてみたい。1816年夏の40日余の英・琉間の異文化接触において,イギリス側に2人(クリフォードとフィッシャー),琉球側にも2人(真栄平と安仁屋)の者が,それぞれ相手方の未知の言語に大いなる関心を寄せ,お互いの文化を言語を通して理解しようと相互に協力しながら努力した。その結果,琉球における英・琉間の異文化接触では,イギリス人が琉球への来航前中国や朝鮮で遭遇した現地人との衝突を,琉球では回避できただけでなく友好関係を打ち立てることができた。」
追記6:
波平恒男著「琉球人の近代西洋との最初の出会い(バジル・ホール著『朝鮮・琉球航海記』(1818)を中心に)」
著書の中で安仁屋の名前が一度だけ出てきますが、安仁屋の上司であった首席通訳官の真栄平親雲上のことが記されています。他にも、当時の琉球の様子や琉球人の様子が詳細に記述されています。
追記7:
John M'Leod Voyage of His Majesty's ship Alceste, along the coast of Corea, to the island of Lewchew; with an account of her subsequent shipwreck London, 1818
(ジョン・マクロード 『アルセスト号朝鮮・琉球航海記』)
1816年、イギリス政府は対清貿易の改善を図るため、アマースト卿(William Pitt Amherst, 1773-1857)を 全権大使とする使節団を派遣した。2隻の軍艦、アルセスト号とライラ号が使節団の護送にあたり、本書の 著者、外科医のジョン・マクロード(John M’Leod, 1777?-1820)はアルセスト号に乗船していた。使節団が清国との交渉を終えて帰国の途につくまでの間、アルセスト号とライラ号は朝鮮、琉球の調査の ため航海を続けた。琉球には艦船の修理と水・食料の補給を理由に寄港、一行は40日余り滞在した。本書はイギリス出航から帰国までの約1年半の航海記録。清国との交渉の失敗、アルセスト号の座礁など 困難も多い航海だったが、琉球では文化や言語の違いを超えた交流が実現し、琉球の人々の礼節をわきま えた様や、心温かい接遇が、驚きと賛辞をもって繰り返し記されている。1817年の初版以降版を重ね、また、オランダ語やフランス語にも翻訳された本書は、東洋の友好的な島国、 琉球を広く西欧の人々に紹介した。巻末には、乗組員フィッシャー(Fisher)の収集による琉球語彙集や、 ジラード(Gillard)による琉球への惜別の詩などを収める。
追記8:
Basil Hall, Account of a voyage of discovery to the west coast of Corea, and the Great Loo-Choo Island. 1818.
琉球の王子の肖像画
本書を春名徹が訳した「朝鮮・琉球航海記(1816年アマースト使節団とともに)」(岩波書店 1986年)があります。
F. W. ビーチー船長が乗船していたブロッサム号来航の琉球側の記録は「球陽」第20巻の「尚王24年4月23日」の項に記されています。
「球陽」は鄭秉哲著「球陽」(読み下し編) 角川書房 1974年(492〜493頁)で読むことができます。
追記11:
北谷町教育委員会編「北谷町の自然・歴史・文化」 北谷町 1996年
53頁〜「インディアン・オーク号の漂着」
https://www.chatan.jp/e-books/book1/html5.html#page=1
北谷町が発刊した「北谷町史」の中に、地元で語り継がれている難破船救助の顛末が記述されています。その内容に安仁屋政輔の名が記されていますので、ぜひご一読ください。
また、『北谷町史 第1巻 通史編』(北谷町史編集委員会 北谷町教育委員会 2005年)の355〜372頁「第六節 インディアン・オーク号の座礁」の項目③にも同じ内容が記載されています。
追記12:
安良波公園(沖縄県北谷町北谷2丁目21番地)
追記13:
その他の参考文献・著書
・豊田実「沖縄に於ける英学の伝統」千城書房、1963年。
・豊田実 「日本英学史の研究 新訂版」千城書房、1963年、235頁~。
・大熊良一著「異国船琉球来航史の研究」鹿島研究所出版会、1971年、81頁~。
・大熊良一訳「ブロッサム号来琉記」第一書房、1974年。
・須藤利一著「異国船来琉記」法政大学出版局、1974年、35頁~。
・亀川正東「沖縄の英学」研究者出版株式会社、1972年、117頁~。
・中島昭子・小川小百合訳「フォル カード神父の琉球日記・幕末日仏交流記」中央公論社、1993年。