1/01/2013

津波古政正の人物像

琉球国王(尚泰王)の国師(教授役・侍講官)だった津波古政正についての詳しい情報は津波古政正 - Wikipediaに書かれていますが、仲泊良夫著「琉球偉人伝」(1969 沖縄風土記社)に、津波古政正の人物像がわかる逸話が詳細に記述されています。

河原田盛美著「琉球紀行」(1876年)によると、

1876122日(明治9年)に河原田盛美は首里寒川村にあった津波古政正の住宅を訪問して会談し、リキュールで歓待を受けました。

お茶を飲んでから、津波古はフランス産のリキュール酒とブドウ酒を出して、さらに吸い物と魚の料理で饗応したそうです。

河原田は、「津波古政正の話は非常に文化的だった」「琉球に来てから、はじめて進歩的な人物に接することができたと思った」と記しています。

津波古は河原田に対して、「あなたは日本酒または焼酎(泡盛)が好きでしょうか、もしお好きなら健康のためによくないから、洋酒をおしすすめしたい。洋酒は健康のためによいので、私は東京から沖縄へ帰るさいに買ってきた。私は近ごろ焼酎は一滴も飲んだことがない」と語りました。


また、津波古は、イギリスの宣教師バーナード・ベテルハイム博士(1811-1870)に招待されたときのエピソードについて話しています。

ベテルハイム博士は184645日から1854623日まで満8年間、那覇の護国寺に滞在し、キリスト教の布教と医療に従事していました。

ある日、津波古と一緒に数人の琉球人がベテルハイムの家に行ってみると、彼はお客にウイスキーをすすめたが、自分は一滴も飲まなかったそうです。すると、琉球人はこれをとがめて、「客にはウイスキーをすすめながら、主人が飲まないのはどうしたことですか」と質問したところ、ベテルハイムは「私はウイスキーを飲むと熱を出して、大いに健康を害するので飲まないことにしている。しかし諸君はウイスキーを好むと思って差しあげました」と語りました。

そして津波古は、中村敬宇(中村正直)の訳した「サムエル・スマイルの立志伝(自助論)」(Samuel SmilesSelf Help」)という本の中に酒の害について書いてあるのを読み、それ以来禁酒したことを河原田に説明しています。


他にも、「私の19才になる孫は目下東京に留学しているが、できればヨーロッパの一国でも観光させたいと思っている」と語っています。

(※津波古政正の孫は十五世の津波古政昭。この逸話から、その当時(明治9年)、津波古の孫である政昭は東京に留学していたことがわかります。)


津波古政正は東京から沖縄へ帰ったとき、西洋の化学や数学の本を買ってきて、読書にふけっていたそうです。とくに彼が愛読した書は、中村敬宇の訳したジヨン・S・ミルの「自由の理(自由論)」と福沢諭吉の「文明論の概略」(1875年出版)でした。

「東京からたくさんの本を買い、余暇に読書し、文明開花の美風を知ることができた。琉球の学生などにも読ませたいと考えている」と語っていました。




※仲泊良夫著「琉球偉人伝」は沖縄県立図書館に所蔵されています。

沖縄県立図書館には同じ内容の、河原田盛美著「津波古親方訪問」が特別収蔵庫に所蔵されています。(「琉球紀行」より抜萃したものを沖縄史研究者である比嘉春潮氏が直筆写本した冊子。)


※「琉球紀行」は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538573

また、「沖縄県史 第14巻」(1965 琉球政府文教局編)に収録されています。



追記: 

『沖縄大百科事典』1983 沖縄タイムス社)より抜粋。

河原田盛美 かわらだもりはる

1842.10.5~1914.8.15(天保13~大正3)内務省出身の係官。福島県出身。福島県出身。早くから農学を志し、養蚕・製紙を研究。1869年(明治2)若松県生産局役人となり、73年大蔵省出仕。7511月、外務省から内務省へ管轄が移されて間もない琉球藩へ赴任。この年の7月松田道之が来島して藩に藩政改革など命じており、琉球処分に向けて政府が動き出した時期である。河原田は出張所所長心得として約1年間、産物取調べや処分事務に尽力した。

『琉球紀行』 河原田盛美著。

1876年(明治9)刊行。明治政府の役人も目に映じた琉球藩の諸事情を記す。著者は1875年内務省出張所に赴任、琉球の改革の必要性を認め、旧慣を改めることや、新たな産業の振興など、いくつかの具体的な指摘を本書で行っている。内容は、琉球の歴史および王府の官制、風俗、慶良間紀行、人物評、貿易、教育、藩政改革など他方面にわたっており、当時の琉球の実情を知る上で不可欠の書である。『沖縄県史』第14巻(1965年)に収録。