1/01/2013

本当の元祖は崎山里主

東氏津波古殿内は東風平親方政真(東開極)を元祖としており、東風平親方政真の父母や妻の名は不明になっています。東姓家譜には父母不詳(「父母不可考)と記されています。東姓門中(東姓会)の間では、三山分立時代中山王(察度)の末裔だと言い伝えられています。また、波上宮を建立したと伝わる崎山里主の末裔で、崎山里主は察度の息子(崎山子)という伝承があります。比嘉朝進著「士族門中家譜」(2005年 球陽出版)には、「崎山里主は、東氏(大宗家は東氏津波古殿内)の祖であるとも伝えられる。」と記述されています。したがって、元祖である東風平親方政真と崎山里主は同じ血族関係(子孫)にあったと考えられます。そこから遡ることで、察度や奥間大親も同じ血縁関係だということがわかります。第一尚氏尚巴志王)により攻め滅ぼされた旧王家(察度王統)だったので身を隠して公にはせず、東姓門中では東風平親方政真を元祖として今に至ります。

※註釈: 崎山里主と東風平親方政真は親子関係にあるのではないかと考えておりましたが、歴史研究家の先生のお話によると「両者それぞれが生存していた年代に隔たりが大きいため、親子関係であったことは考え難い」とのことでした。このことから、崎山里主には「崎山子(サキヤマシー)」という子が存在し、崎山里主と崎山子は別人で親子関係にあったのではないかと推測します(東風平親方政真 - 崎山子? - 崎山里主)。


沖縄県那覇市首里崎山町の崎山御嶽がある崎山公園には、「東姓拝所」と刻まれた崎山里主の墓碑が現在も残されています。


崎山公園の崎山御嶽は球陽(外巻・遺老説伝)」の第87話に、「崎山里主の死後、その徳を称えて住居跡を御嶽とした。」と記されています。王府は崎山御嶽を聖地南風之平等の御嶽の一つ)として、首里大阿母志良礼という高級神女に祭祀を執り行わせていました。御嶽の境内(崎山公園内)には、崎山里主の御墓(東姓拝所)と伝えられるものがあり御嶽の本体となっていました。御嶽にあった門は木造の瓦葺きでしたが、老朽化のため1865年に「切妻風屋根」と呼ばれる石造のアーチ門に改築されました。その後の沖縄戦で破壊されてしまったので、現在はコンクリート造の門になっています。古くから王府の聖地を参拝する行事である「首里拝み」の拝所の一つとなっています。離島への遥拝所として参詣者が崎山御嶽に集まり、今でも大事にされています。地元の町内では、旧暦9月に「火松ぬ御願」を崎山御嶽で行なっているようです。崎山御嶽のことは1713年に琉球王府が編纂した地誌琉球国由来記」や琉球国旧記」、また、比嘉朝進著「沖縄拝所巡り300」(2007 那覇出版社)に記述されています。

崎山御嶽は1986年に那覇市の文化財(市指定史跡)に指定されました。

※註釈: 御嶽の境内(崎山御嶽の境内とは、もともと戦前までは樹林に覆われ岩石が点在していた崎山里主邸跡の広い敷地の全てが御嶽の境内とされていました。その後の那覇市による公園整備事業に伴って東姓門中の当主が土地を市へ寄贈し、発掘調査を行った後に御嶽の敷地を含めた周辺はきれいに整備され、今の崎山公園となりました。現在は公園内に墓碑(東姓拝所)を残したまま、御嶽にあった門を金網フェンスで囲い、市の文化財(指定史跡)として保存活用されています。)

※崎山御嶽の境内の範囲については、沖縄県立図書館(貴重資料デジタル書庫)の「首里古地図」をご参照ください。


「崎山の嶽」

昔、首里に崎山里主という人がいました。正直で、純朴な生れつきの性格で、それに精進、修養を常に怠らず、とうとうその徳望は、他に並ぶ者がいない程になり、ごく自然に、人々から神様のように崇められ、人々があまりにも慕いました。そのために、住んでいた処まで神嶽として崇められようになり、この人のことを、誰もが信じるようになりました。これが、今の崎山御嶽です。「球陽(外巻・遺老説伝)」第87話)


琉球の建物は、昔は板葺き(木造)が主流でした。しかし、1959年に大川清氏によって試堀調査が行われ、崎山御嶽から瓦が出土したことが確認されています。その後の公園整備事業に伴う発掘調査で大量の瓦の出土が確認されました。沖縄で瓦の出土が確認されたのは5ヶ所だけで、首里城、浦添グスク、勝連グスク、クニンダ(久米村)、そして崎山御嶽です。当時の瓦の建物は、限られた者が住める立派なものであったといわれています。沖縄から出土した瓦は、明朝瓦、大和瓦、高麗瓦がありますが、崎山御嶽から出土したのは大和瓦と高麗瓦でした。

そして崎山御嶽から出土したのは大量の瓦だけではなく、白磁(碗、小碗、皿、杯など)、青磁(碗、皿、杯、香炉、盤、壺など)、青花(碗、皿、杯、盤、瓶など)、黒釉陶器、褐釉陶器、韓国産陶磁器、土器、石器、様々なたくさんの銭貨、青銅製品(簪、金具類など)、ガラス製玉類(勾玉、丸玉)などが確認されています。

※崎山御嶽の発掘調査についての詳細は、琉球大学図附属書館所蔵「崎山御嶽遺跡 : 首里崎山公園整備事業に伴う緊急発掘調査報告書 那覇市教育委員会文化財課編(那覇市文化財調査報告書 / 那覇市教育委員会編, 第67集)那覇市教育委員会, 2005.3」に記載されています。


崎山御嶽の下には「崎山樋川」があります。崎山樋川も首里大阿母志良礼が祭祀を行い、その年の恵方が巳(南南東)であった正月には国王に若水を献上していました。


琉球八社の一つに「波上宮」がありますが、その起源にまつわる話が崎山里主にあります。崎山里主は「琉球国由来記」に記されており、波上宮を建立したと伝えられています。また、1605年に袋中良定が著した「琉球神道記 巻第五」の「波上権現事」に、崎山里主のことが記されています。波上宮の由緒である「御鎮座伝説」にも同様の伝承が記載されています。


「昔、南風原間切の崎山村に崎山里主なる者がおり、常に釣や漁を好み、日々海や渚に行っていた。ある時、後ろから呼ぶ声があったため振り向いてみると無人であり、その辺にはただ異石があるだけであった。崎山里主はこの石から声が出たものと思い、そのため高所に安置した。祈って、「もし神霊であるのなら、私の今日の魚釣りは思い通りにさせて下さい」と言った。するとその日は大漁で、喜んで家に帰った。その後も祈ると度々霊験があった。ある夜、石のあたりに光があった。霊石だろうと思って、持ち帰って崇めた。時にこの国の諸神がこの石を奪おうとしたため、家にこの石を隠したが、害されることを恐れて、遂に石を抱いて村を出て北に去った。諸神は許さずこれを追ったが、さりとても崎山里主の志は堅く、その霊石を棄てず、遂に波上山に至った。たとえ死んだとしても他に行くべきではないと決意したが、ここに到って諸神は奪おうとすることを止めた。その時神託があって、「私は日本熊野権現である。お前は縁があるからこの地に社を建てなさい。そうすれば国家を守護するだろう」といった。これによって王家に奏上して社を建てた。ある日、鳧鐘(梵鐘)が波の上より浮んで来た。鐘を撞けば、その音は波上山(なんみんさん)といった。そのためこの鐘を崇めて神殿に安置した。(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、波上山護国寺、権現建社勧請之由来)


戦前は官弊小社(波之上熊野権現社)として尊厳な域でしたが、戦火によって焼け失いました。現在は波上宮として復元され、多くの参詣人に参拝されています。


波上宮の神宮寺は隣にある護国寺で、察度王の「鎮護国家の勅願寺(王の祈願所)」として、1368年に薩摩(鹿児島県)坊津の一乗院から来琉した頼重法印(らいじゅうほういん)によって創建されました。以来、武寧王より最後の尚泰王に至るまで、王が即位する際には家来数百名と共に護国寺へ参詣しました。


崎山里主は、南風原の大国家の養子になったという伝承もあります。察度の落胤嫡男ではなく庶子)であったことや殺傷を嫌う温厚篤実な性格であったため、3つの大きな勢力に分かれ覇権を争っていた三山時代において王の世嗣ぎである王世子(王位継承者)としての資質を持ち合わせておらず、武寧のほうを王世子にするために養子に出したのではないかと考えられます。

大国家とは、天女を娶ったとの伝承を有する大国子(デーコクシー)ゆかりの旧家で、南風原町宮城には今でもデーコク(大国)という拝所が残っています。「字誌宮城」(2009年)にはデーコク(大国)に火之神や祖神が祀られている」と記述されています。これは大国子(デーコクシー)が住んでいたところで、その屋敷跡が拝所になっています。この大国子は大国主の末裔であるという伝承が残っています。


中山世鑑」には、察度は成長しても(国王になるまでずっと)農耕しないで、朝夕魚釣りをしていたと記されています。「琉球国由来記」には崎山里主も毎日魚釣りをしていたことが記されており、親子とも魚釣りが好きであったことがわかります。


崎山里主の妻の香炉が存在しますが、今現在は分家の知念家にて保管されています。



追記:

伊禮春一著「琉球 家紋系図・宝鑑」(1992 琉研「沖縄家紋研究会」)122ページより抜粋

津波古殿内家紋

元祖・諱開極 東風平親方政真

津波古殿内

東姓旧首里士族大宗

当主 東 政弘

住所・沖縄県那覇市識名1丁目1番地

「東姓の人達は、奥間大親の後裔であるという。首里城、南城壁の下、崎山御城には同門の御先祖、崎山聖人がまつられ、同門の人達が参拝する。この崎山聖人は奥間大親の長男察度王が勝連城の姫と結婚し二人の間に生れた長男で、察度王の長男と伝えられる武寧王は実の所は崎山子とは腹ちがいで生れた、次男であったという。この崎山子の子孫が東性の元祖、東風平親方政真で、津波古殿内の始祖である。政真は尚円王世代に、東風平間切地頭職を任じられ東風平親方を名乗るまで出世し、西暦1524年首里崎山村に尚真王より家屋敷を賜わったという。二世政供は父の跡を継ぎ東風平間切総地面を勤め、尚清王世代の高精年間に三司官に就任し西暦1560年在職中この世を去っている。三世屋宜親方改長は第二尚氏七代目尚寧王世代に中城間切の屋宜地図を拝命し屋宜親方を名乗っている。四世政廣は慶長の役の時、職名で戦死し跡目は次男、政知が継いでいる。五世政周は南風原の与那覇地頭を勤め、六世政房は評定所と系図座に勤めている。七世与那覇親雲上政久は西暦1724年与那万地頭に任じられ、八世政福は慶良間地頭職の後、宜野湾安仁屋地頭を任じられている。九世政変は球陽の筆者となりその後、接貢船の才府役を勤めている。同家は、その後十世政清、十一世政守、十二世政情、十三世改正、十四世政術、十五世政公、と継れ十六世政弘が現当主である。同家の分家筋に当る、知念殿内の三代目を継いだ、知念親方政貞の娘童名思戸金は第二尚氏十代目、尚質王の夫人となり真南風按司を称し、尚質王は政貞に御拝墓を賜わったという。津波古殿内からの分家姓には、津波古、東、屋宜、与那覇、債間、知念、安仁屋、小波蔵などの姓があり、名乗頭は政である。」


追記2:

奥間大親からさらに上に遡ると、奥間大親 - 辺土名里主 - 並里按司まで祖先の名を確認することができます。奥間大親を元祖とする琉球国察度王統の門中である奥間家は、奥間大親が息子である察度を勘当し、察度は家を出た後に国王になったので、奥間家は次男の金満按司が跡目を継いでいます。

※註釈: 辺土名里主は島添大里グスクの築城に関わり、「カニマン御嶽(南城市大里大里地区)」が今も残されています。並里按司は大和から来た鍛冶屋と伝えられています。

※註釈: 奥間大親は奥間鍛冶屋(国頭村奥間)の出身で、子孫は座安家だと伝えられています。国頭村奥間には、「奥間鍛冶屋発祥の地の碑」や「かぎやで風節の碑」があります。

※註釈: 伊敷賢著「琉球王国の真実 琉球三山戦国時代の謎を解く」(2013年 琉球歴史伝承研究所)より抜粋

「察度の父は謝名村の奥間大親(ウクマウフヤ)で、母は『羽衣伝説』の天女のモデルになった恵慈(エージ)王(英祖王統3代目)の次女真銭金(マジニガニ)である。奥間大親は宜野湾間切真志喜村に住み、王女との間に姉・聞得大君(チフジン)と弟・察度が生まれた。王女は身分を隠すため“天女”と言い伝えられたものと考えられる。真銭金は弟の玉城王の乱世を避けて、奥間大親とともに謝名村へ逃げて来たのである。真銭金は奥間大親に嫁いで聞得大君と察度を生んだ後、大里按司と再婚して、承察度(ウフザトゥ)と汪英紫(エージ)を生んだ。汪英紫は、後に島添大里按司と称した。聞得大君は甥の武寧王が滅んだ時、久高島の屋号大里に逃げた。屋号大里は島添大里按司の長男が元祖である。」

「伝説によると、(英祖王統4代目)玉城王が政治をかえりみず酒乱に陥ったとか、幼い西威王に代わり母親が政治を私物化して王政を混乱させたと一般的にいわれているが、実際は、門閥間の抗争による分裂政治に陥っていたというのが真実に近いと推察される。派閥争いに敗れた恵慈王(英祖王統3代目)の旧臣たちは、沖縄各地に逃れて行った。玉城の旧糸数按司や富里按司をはじめ石原按司など、多くの重臣たちが宮古や八重山の島々に散って行ったと考えられる。」

「奥間大親の父は奥間カンジャーと称し、中城間切奥間村から宜野湾間切真志喜村に移り住み、百名大主(ヒャクナウフヌシ)の十二男真志喜大神(マシキウフガミ)二代目真志喜五郎の養子になった。奥間カンジャーの墓は、大里城址西側の金満御嶽(カニマンウタキ)にある。奥間カンジャーの父は国頭間切辺土名村の生まれの辺土名里主(ヘントゥナサトゥヌシ)で、若い頃は佐敷間切新里村に住んでいたが、後に宜野湾間切謝名村に移り住んだ。伝説によると辺士名里主の父は並里按司で、大和から来た人だといわれ、沖縄中を巡行して五穀の種子植え付けを指導したと伝えられている。並里按司は佐敷間切新里村屋号並里で祀られ、墓は同村の沢川御嶽の山中にある。並里按司は「仲中山」英祖王時代の人で、同じく大和から来て浦添城下で仏教を広めた僧禅鑑(ぜんかん)と同時代の人物である。」

※註釈: 沢川御嶽とは、南城市佐敷字新里にある澤川水源のこと。澤川水源の中に「並里御墓」(並里按司の墓)があります。


追記3:

「那覇市文化財調査報告書第67集「崎山御嶽遺跡」(首里崎山公園整備事業に伴う緊急発掘調査報告書)」(2005年 那覇市教育委員会 文化財課編集 那覇市教育委員会発行)より抜粋

「琉球国由来記」によると本遺跡は崎山里主の屋敷だったと記されており、様々な説話も残る。

崎山里主は尚巴志によって滅ぼされた察度王の子と称され、また一方では波上宮縁起で国家守護の神託を受け、王朝に社を建て祀るよう奏上したとの伝えがある。崎山里主とは、どのような人物でありどのような暮らしをしていたのであろう。今回の発掘において類をみない量の瓦が検出されており、立派な屋敷が建っていただろうことを忍ばせる。また遺跡内にある彼の墓と言い伝えられる拝所は琉球王府時代に首里大阿母志良礼が仕えたウタキの1つとして公儀の参拝もなされていたことや、遺跡の東側にある崎山樋川からは吉方が巳の方位にある年の元旦に国王に捧げる若水を取ったということが「琉球国由来記」に記されている。このことからも本遺跡が首里王府と深い関わりがあったことが窺える。

現在本遺跡は公園として整備されており、象徴的な岩の拝所を残しながら、みどり豊かな雰囲気や夜景輝く那覇の町並みを一望することができる。拝所には今も豊作、豊漁を祈る場などとして参拝者が訪れ、静かにたたずむ市民の憩いの場所となっている。


追記4:

伊敷賢著「琉球王国の真実 琉球三山戦国時代の謎を解く」(2013年 琉球歴史伝承研究所)

「崎山御嶽と波之上権現の由来」より抜粋

「多くの系図では、察度王の世子は浦添王子となっているが、本当の長男は崎山里主 (崎山之子ともいうで、崎山里主は察度王の本当の長男でありながら殺傷を嫌い仏神に帰依したので、崎山聖人とも呼ばれ、廃嫡されたという。

言い伝えによると、崎山里主の母と姉は、明国から冊封使が来た時、辻村の迎賓館で接待のため冊封使の夜の相手をさせられたという。崎山里主は母と姉の無念を感じ仏門に帰依し波之上熊野権現社 (現在の波上宮を建て、老後は首里崎山に隠居したといわれる。隠居跡は、崎山御嶽として子孫の東氏門中(名乗頭は「政」)などが祀っている。

崎山里主の母と姉は迎賓館の主として一生辻村で暮らし、亡くなっても辻村の森に葬られた。現在その地には「辻遊郭開祖之墓」があり、水商売の神として崇められていて、旧暦の二十日正月の“ジュリ馬行事”の時などに拝まれている。

「波之上権現の由来」によると、首里崎山幸地村に住んでいた崎山之子が遠く端城の西の海に光るものがあり、捕まえると海に浮かぶ石であった。これは神様の使いであるとして祀ったのが、波之上権現の始まりだといわれている。当時は、波之上付近は離れ島でナーファ(島の端)と称し、海に突き出た丘のことを端城と称されていた。」

※註釈: 「沖縄大百科事典」(1983 沖縄タイムス社)によると、当時、明国から一度に数百人の冊封使が渡来し、滞在期間は4ヶ月から8ヶ月にも及んだそうです。冊封使が滞在した迎賓館で、食事の用意や宴のもてなしをしたのがジュリの女性たちでした。この時、崎山里主の母と姉は迎賓館の主を務めました。

※註釈: ジュリ(尾類、技芸の教養を身に付け、冊封使や首里の貴人、那覇商人を相手にもてなしをした女性のこと。)

※註釈: 崎山里主の母が「辻開祖」として祀られている辻町。今現在の辻町は風俗街のイメージが強いですが、昔からの遊郭が発達した街で歴史があります。1672年に摂政・羽地朝秀が辻・仲島の私娼を集めて、王府公認の遊廓の街をつくらせました。冊封使や薩摩の武士から一般女子を守るためでした。これが風俗街(遊廓)の始まりです。(※崎山里主の母が主を務めた初めの時代は遊廓ではなく、明国からの大勢の冊封使が滞在し、琉球王府がおもてなしするための場所でした。)

辻村跡(チージムラアト)とは那覇(なは)の北西部にあった花街(はなまち)跡。辻村(つじむら)、または単に辻(つじ)といい、女性が主体となって生活した場所であった。辻の女性は『ジュリ』と呼ばれ、『侏偶』・『尾類』の字が当てられた。 琉球王国におけるジュリの起源については不明だが、15世紀以降、唐(とう、中国)や南蛮(なんばん、東南アジア諸国)、大和(日本)と交易を行った時代、中国からの冊封使(さっぽうし)一行や大和からの商人等をもてなした『ジュリ』が居たといわれる。『球陽(きゅうよう)』には、1672年に『辻』・『仲島(なかじま)』に村を創建し、そこに多くのジュリが住むようになったとあり、この頃、各地に居たジュリを『辻』・『仲島』に集めた記事だと思われる。また、那覇港に隣接する渡地村(ワタンジむら)にも花街が創られ(創建年不明)、『辻』・『仲島』・『渡地』の3ヵ所が琉球の花街として明治初期まで存続した。1879年(明治12)に沖縄県が設置されると、ジュリは18歳で登録証(鑑札、かんさつ)が交付された。1908年(明治41)に『仲島』・『渡地』の花街は廃され、『辻』に統合された。これにより『辻』は、政財界の要人、官公庁・教育界の指導者をはじめ、地元の商人などが出入りし、接待や宴会が行われた。また、旅客が宿泊する場所ともなった。ジュリは、これらの客をもてなし、安らぎを与えるために、料理や唄・三線(サンシン)・琴・踊りなどの芸事にも磨きをかけた。『辻』は、沖縄県下最大の社交場、『華やかな』場所として知られた。 一方、辻の女性は、『アンマー』(ジュリの抱え親・裏座敷の女将)を筆頭に、『ジュリ』、「ナシングヮ」(アンマーが産んだ子供)、『チカネーングヮ』(貧困のために幼い頃に『辻』に売られた子:『コーイングヮ』ともいう)などで擬制的家族を作り、『辻』の親・仕舞いはもとより、故郷の親・兄弟をはじめ、人間社会における義理・人情・報恩を第一の教えとして生活した。また、神への祈りと祭りを取り仕切る『盛前(ムイメー)』と呼ばれる神職を中心とした女性による、女性のための自治組織を整え、二十日正月(はつかしょうがつ)の『ジュリ馬(うま)』行事を始め、言葉・立ち居振る舞いから、衣装・髪型・料理・芸能に至るまで独自の文化を創り上げた。 1609年の薩摩藩島津氏の琉球侵攻を経て、1672年に誕生した華やかな『辻』も、1944年(昭和19)10月10日の空襲により消滅し、その幕を閉じた。2014年3月(那覇市歴史博物館)


追記5:

那覇市観光資源データベース(崎山御嶽)より抜粋

[学術的詳細]

文化財(市指定史跡)指定年月日:昭和61年6月25日

「王府時代、首里大阿母志良礼(しゅりおおあむしられ)が仕えた南風之平等(はえのひら)の御嶽の一つ。『琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)』(1713年)には、那覇にある波上宮の縁起に関わる崎山里主の屋敷だった、と記されている。彼の墓と言い伝えられている東姓拝所(とうせいはいしょ)が境内にある。御嶽の門は、もとは切妻破風屋根(きりづまはふやね)の石造アーチ門だが沖縄戦で破壊され、現在ではコンクリートづくりの門になっている。1959(昭和34)年、大川清によって試堀調査が行われ、かなり豊富な古い瓦を含む層が確認され、高麗瓦(こうらいがわら)と大和系瓦(やまとけいがわら)が出土した。境内東の丘の下には、王府時代吉方が巳の方位(南南東)にあたる年の元旦に、国王へさし上げる若水を取った「崎山樋川(さきやまヒージャー)」がある。」

[情報引用元]

那覇市教育委員会文化財課(2007)『那覇市の文化財』那覇市教育委員会


追記6:

比嘉朝進著「沖縄拝所巡り300」2007 那覇出版社)より抜粋

「崎山御嶽は、察度王の庶子・崎山里主の住居跡にあるといわれている。丘の西端にあり、大和系の古瓦が出土した。同じ物が首里城跡からも出て、それは察度王時代(1350年~1395年)に属するといわれる。

崎山里主は信仰篤く、賢徳の人だったので、後世の人はその徳を慕いあがめて御嶽となした。門を東向きにした瓦葺きであったが老朽化したため、1865年に石造屋根型の門に造り変えた。樹林におおわれ、岩石が点在していたという。沖縄戦で破壊され、現在はコンクリート造り屋根型の門が建てられている。
崎山御嶽は昔から「首里拝み」や他島への遥拝所として参拝者が多い。町内では旧暦9月に火松ぬ御願をおこなっている。
近くになる崎山樋川は、巳(南南東)の恵方の若水として首里城に献上された。なお、崎山里主は国王に進言して、波上宮を創建した人である。東氏、名乗りかしら「政」が一門である。」


追記7:

「琉球国由来記」巻十一(密門諸寺縁起)

・波上山護国寺

[権現建社勧請之由来]

恭考権現建社勧請、 往昔、南風原間切崎山村、有崎山里主。 常好釣漁、日行海汀。 時有後呼声。 顧之無人、其辺唯有異石。 想是覚其所作。 故安置於高所、而祈曰。 若有神霊者、吾今日釣魚、令有如意云。 然其日大獲。 喜悦而帰家。 後祈度々有験矣。 或夜、当石辺有光。 思為霊石、把来崇之。 時此国諸神、欲奪得此石。 家蔵此石、恐有害乎。 遂抱石而出村舍、北去。 諸神不許、追之。 雖然志堅、不棄其霊石。 遂到波上山。 思雖縦死、不可行于他。 于是諸神、止奪心給矣。 有時神託曰。 吾是日本熊野権現也。 汝有縁、可社此地。 然者可為国家守護云云。」


追記8:

崎山御嶽から出土した瓦

※参照: 沖縄県立埋蔵文化財センター 2017年3月
首里城跡 -京の内跡発掘調査報告書(VI)- 平成6年度調査の遺物編(3)(https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/29/29221/21197_1_%E9%A6%96%E9%87%8C%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf)

※参照: 沖縄県立博物館・美術館
沖縄県考古学ニュース

※上記より抜粋
崎山御嶽遺跡 (14~15世紀頃 那覇市首里崎山町)
崎山御嶽遺跡は首里城の南側に接する場所にある。『琉球国由来記』によると、この遺跡は崎山里主の屋敷跡だったと記されている。また遺跡内にある彼の墓と言われる拝所は、琉球王国時代に首里大阿母志良礼が仕えた御嶽の1つであったことが記されている。
遺跡がある場所を公園として整備する前に発掘調査が行われた結果、当時存在していた建物の屋根に葺かれていたと考えられる大量の瓦が発見された。
大量の屋根瓦
瓦の大部分が、灰色をした「大和系瓦」と呼ばれる物であった。沖縄で最初に葺かれた瓦は「高麗系瓦」で、その時期は世紀後半〜世紀末と諸説があり、いまだに確定していない。のつぎに登場するのが大和系瓦である。
大和系瓦の特徴は唐草文の軒平瓦や三つ巴文の軒丸瓦、一枚造りの平瓦などにある。日本で造られていた瓦に文様や製作技法が似ていることから大和系瓦と呼ばれるようになった。
大和系瓦は首里城を初めごく一部の古いグスクからだけ出土するという特徴があり、今回のように大量に出土した例は初めてであった。まだまだ不明な部分が多い沖縄の瓦の歴史を解明する重要な発見となった。


追記9: 

崎山御嶽について記述されている「球陽(外巻・遺老説伝)」第87話。

※参照: 筑波大学大学院 人文社会科学研究科 歴史・人類学専攻

重点領域研究「沖縄の歴史情報研究」

CD-ROM版研究成果報告書 全10

沖縄の歴史情報 第7巻

「球陽」諸本集成

(3)内閣文庫所蔵「球陽」13冊本(和、外務省写本、架蔵番号:178-381)

第13冊 (外編一~三、遺老説伝) 1~90 (90)

No.062


追記10:

崎山里主に関連する写真

・沖縄県那覇市首里崎山町



・崎山公園


・崎山御嶽





・東姓拝所


・東姓拝所からの眺め(那覇市内を一望できます)

・崎山樋川




・波上宮(沖縄県那覇市若狭)