1/01/2013

東姓会のルーツはどこまで遡ることができるのか?

東姓会の元祖である東風平親方政真、そして本当の元祖の崎山里主。この崎山里主は、察度の子であると数多くの文献に記されています。そして次に、図書館に並ぶ「琉球国王察度」に関する歴史書をひも解くと、察度の父は奥間大親であることがわかります。


察度からさらに上へ、上へと東政会のルーツを遡ることができるのではないかと思い、沖縄県立図書館(5F 郷土資料室)で調査してみました。


奥間大親の生家である奥間家のことを詳しく調べてみると、奥間カンジャー(辺土名子?)、そして辺土名里主、並里按司まで遡ることができました。慶留間知徳著「琉球祖先宝鑑」に、並里按司は南城市佐敷字新里の家世で、同地区の澤川水源の中には「並里御墓」(並里按司の墓)があると記されています。並里按司は国頭郡、中頭郡、島尻郡を巡行して五穀の種子植え付けを指導し、功名を挙げた人物だそうです。


慶留間知徳著「琉球千草之巻」(平安座村の項)には、伊平屋大主の五男が並里按司で、伊平屋大主は舜天王統義本王の子だと記されています。この義本から、さらに舜馬順煕そして舜天と上に遡ることができます。


舜天王統の開祖である舜天王の父は誰なのだろうかと調べてみたところ、「中山世鑑」や「中山世譜」に、舜天の父は「鎮西八郎為朝」(源為朝)だと記されていました。また「中山世譜」には、舜天の姓を「源」としており、「鎮西八郎為朝」を父としています。慶留間知徳著「琉球祖先宝鑑(P77)」に、源為朝は保元の乱に敗れて伊豆諸島に流された後、琉球に渡ったと記されており、また、東江長太郎著「古琉球三山由来記集(P360)」 には、源為朝は琉球に渡ったあとに4人の子息をつくり、その中の1人が舜天王(童名:尊敦)(大里按司の妹、真鍋樽金との子)だったと記されています。源為朝は、源頼朝(鎌倉幕府初代征夷大将軍)や源義経(牛若丸)の叔父にあたる人物です。


源氏はルーツを遡れば皇族や天皇に辿り着く家系で、天皇は初代神武天皇まで遡ることができます。


琉球史の文献からはっきりと確認することのできる東政会のルーツは、伝説も含め遡っていくと源為朝まで辿り着くということがわかりました。


東風平親方政真 - 崎山子? - 崎山里主 - 察度 - 奥間大親 - 奥間カンジャー(辺土名子?) - 辺土名里主 - 並里按司 - 伊平屋大主 - 義本 - 舜馬順煕 -  - 源為朝